まるマッコリの日記(仮)

自分の思ったこと、好きなものを書いていきます。主に特撮やFGO。

まるマッコリの日記(仮)

結局私は「選ばれなかった者」なのだ 『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』感想

 映画としての出来は、非常に良かったと思う。「ボレロ」からスタートし、パロットモンが出現。その暴走を成長した「選ばれし子供達」が止めにかかる。

アグモン、進化だ!」の掛け声とともに光るスマホデジヴァイス。そして鳴り響く劇場版「brave heart」のイントロ。回転するアグモンが徐々にアップになり、いつの間にかグレイモンへと進化。突如巻き起こるパロットモンとの戦闘。

brave heart~LAST EVOLUTION Version~

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  • アーティスト:宮﨑歩
  • 発売日: 2020/02/19
  • メディア: CD
 

 

 あの頃。何もかもが希望に満ちていたあの頃。無限大の夢の真っただ中だったあの頃に見た、緑の怪鳥と橙色の恐竜との戦闘が、令和を迎えすっかり大人になった私の目に飛び込んでくる。もうこれだけで、私の心を懐かしさが全力で殴り抱擁する。

 話が進行するたびに、感じるのは子供達の成長。ほとんどの子供達が、自分のやりたい事に向かって真っすぐ歩んでいる姿が如実に描かれてく。対照的に浮き彫りになるのは、どこに歩むか悩みあぐねる太一とヤマトの姿。どこかで見た事あるような姿が、なんとも言えない気持ちを誘う。

Butter-Fly(2020年8月18日(火)までの期間生産限定)

Butter-Fly(2020年8月18日(火)までの期間生産限定)

  • アーティスト:和田光司
  • 発売日: 2020/02/19
  • メディア: CD
 

 

 明かされるパートナー関係解消の真実。それでもなお戦おうとする太一とヤマト。まやかしの永遠に焦がれながら、圧倒的な強さの前に絶望しながら、それでも立ち上がり戦う2人。長年の相棒に励まされながら、覚悟を決める2人。至る最後の絆の進化。

 勝利を勝ち得た2人に待っていたのは、別れの時。静かに、懐かしむ様に、そしていつもの様に、小さな相棒と言葉を交わす。しかし明日の話をしようとしたその時にはもう、冒険は終わってしまっていたのだった。

 相棒との別れに涙し、2人は未来へと歩み始める。それぞれに目標を見つけ、まっすぐに進み始める。その眼差しには、幼き頃の輝きがまだ宿っている様に感じた。

映画ノベライズ デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆 (ダッシュエックス文庫)

 

 

 そう、20年。『デジモンアドベンチャー』に魅せられた子供達はすっかり大人になってしまった。そんな大人になってしまった子供達にとって、この映画は薬であり毒だ。あの頃のときめきと時間の経過という悲痛が同時に押し寄せてくこの映画は、劇場に駆けつけた子供達を、容赦なく殴りつけてくる。殴られながら、嘗ての子供達は思い出に満たされていたのではなかろうか。

 ただ、ただ私は、私個人としては、毒の作用が強かった。途中から何も感じなくなってしまった。理由は明確である。映画を見ながら、私は「選ばれなかった人間だったんだ」と、強く自覚したからだ。

第1話 漂流? 冒険の島!

第1話 漂流? 冒険の島!

  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 私はどちらかといえば02世代である。オメガモンは大好きなのだが、それ以上にインペリアルドラモンパラディンモードに強く憧れる世代である。そんな02世代の希望は、子供達全てに希望があるというテレビ版の最終回。このラストには批判的な意見も多々あるのだが、私は子供ながらに心が躍った。俺にも可能性があるんだって。

 

 しかし時間が流れる中で、私は少しずつ周りから取り残されていった。怠惰故だろうか、そもそも能力が劣っているからだろうか、今でも考えるのだが、考えて分からない時点で私は負け組なのだ。

 特別と言えば特別なのかもしれない。人よりも劣るという意味では、他に誰もいない。ああ確かに特別だ。そんな特別なんて望んでもいなかったが。

 

 周りから取り残されながらも、それでもやりたい事はできた。早く就職して、その為に働こう。そう思ってついに上京した。その時は、確かに可能性を感じていた。

 ただ扉を開けてみればどうだろう。私が活躍できる場なんて微塵もなかった。圧倒的に能力が足りなかったし、もがき苦しんだが不足を埋める事は叶わなかった。私が求められたのは月謝だけ。私には才能なんてなかったのだ。

 仕事も同じである。短大で知識は身に着けたつもりだったが、そんなものは何の役にも立たなかった。加えて理解できない範囲は日々進化し続けているという。もはや私は、どこに自分の拠り所を求めればよいのか分からなくなった。

 

 

 何もない私と違って、太一やヤマトには世界を救うだけの力があったし、嘗ての子供達も皆一様に「やりたい事」を実現していた。映画の主犯であり、「選ばれし子供」だったメノアも、飛び級できるほどの秀才である。

 あぁ違う、違うのだ圧倒的に。結局私は「選ばれなかった者」だったのだ。夢も希望もなく、ただただ生きる為だけに10時間近く好きでもない事をしている私は、間違いなく彼らとは違う。そう感じた時、私の中の『デジモンアドベンチャー』は空虚なものになった。

 以前テレビ番組でモデル4人が、「相手の顔が羨ましい、自分はそうでもない」みたいな発言をしあっているのを見た事があるのだが、その時と同じ気持ちになった。「できる人間の葛藤」程、できない私にとって空しい事は無い。結局あの映画は、これまで歩んできた道を楽しみ、納得できた人間だけが涙できる、そんな映画だったかなと個人的に思うのだ。

 

 

 繰り返しになるが、映画そのものの出来は非常に良かった。『デジモンアドベンチャー』の続編として、最後と言い切る映画として、これ以上の作品は無いだろう。

 映画の楽しめなかったのは、完全に私個人の問題である。私が怠惰で、人より劣っていて、そんな時間を過ごしてきた私が悪いのだ。間違いない。

 嘆かわしいのは、自分の能力の無さもそうだが、無限大の夢の後がこんなにも何もない世の中だなんて、あの頃はちっとも思わなかった事である。

「ブログ≒ラジオ」、果たして私は誰かのパーソナリティになれているのだろうか。

www.jigowatt121.com

amanatsu0312.hateblo.jp

 

 

 考えた事もなかった。自分の感情を書き留める目的で今までやってきたので、「ラジオのように」か…。うん…なるほど…。

 なんと素晴らしい発想だろうか。確かに私個人のブログ巡りを振り返ってみると、「上手い文章」もさる事ながら、「その人らしさ」を求めている自分がいた。文章に個性の光を求めているのだ。正直文章として読みにくいものでも、好きなブログは多々ある。やはり私は、ブログから感じ取れる「その人らしさ」を楽しみに、文章を読んでいるのだろう。

 

 もちろん情報の正しさとか有用性とかも大事ではあるし、人それぞれのブログの在り方があって当然構わないのだが、いち読み手として、一介のブログファンとして考えた場合、やはりその人だけが書けるユーモア溢れる言葉チョイスだったり、私では到底できないような経験や思考を感じ取れる方が楽しい。そういう「その人らしさ」を感じた時、読者登録に自然とカーソルが進むのだ。

 

 

 さてさて、では私。私はどうなのだろうか。「話し手」として、面白いものを提供できているのだろうか。

 今まで自分の為と言い聞かせ、つらつら思った事を綴ってきたわけだが、ネットの海に流す以上、それなりに表現には気を付けてきたつもりだ。それでも疑問を抱く。果たして私の表現を、人となりを気に入ってブログを読んでいる人はいるのだろうか…。

 

 考えてみれば、そもそも私には「人にどう思われたいか」が薄い気がする。「良い人と思われたい」「嫌われたくない」がせいぜいで、自分への意識が乏し過ぎる。まずはそこからではなかろうか。

 自分がラジオを聴くときも、やはりパーソナリティのキャラクター性を楽しみにしてラジオを聴く。キャラクターとして面白い、人として魅力のある人のお話は、基本的に面白い事が多い。

 にも関わらずだ。自覚的に他人に他人を求めているにも関わらず、自分に対しては何も求めていない。何も据えていない。このままで果たしていいものだろうか。言いわけが無いだろ。

キャラクターの作り方

キャラクターの作り方

 

 

 

 まぁでも、こればかりは考えても仕方ない事でもある。どんなにこちらが努力しても、好意的に思ってもらえるかどうかは、最終的には「読み手」次第である。私は私で、読んでもらえる為の工夫を記事毎に最大限努力しているつもりなので、後は「なるようになれ」でしかないのだ。

 …とりあえずは、このブログが誰かの「暇つぶし」になれれば、今のところ御の字かな。うん。

超 暇つぶし図鑑

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  • 作者:ARuFa
  • 発売日: 2017/05/10
  • メディア: 単行本
 

『娘の友達(3)』感想 その叫びは、私の心を深く抉った。

 日々は、疲れる。優秀な人でも、そうでない私のようなでくのぼうでも、日々生きていれば、疲れる。昔は大なり小なりという表現を用いていたが、「疲れ」や「ストレス」とは、人によってその負荷は異なるという事を、最近になってようやく気が付いた。他人にとっては大した事なくても、私にとっては大した事。他人にとっての小石は、私にとっての岩石であり、逆もまた然り。結局、みんな等しく「疲れている」。

 

 だからみんな、癒しを求める。疲れない自分を求める。もしくは楽しい自分を求める。趣味に興じるという形で癒しを求めるのが一般的でしょうか。仕事や日々の営みとは違う「やるべき事」ではない、「やりたい事」に没頭する。そうして人は、日々の疲れを癒す。

 癒される瞬間は人それぞれなのですが、他にも「人に認めてもらう」というのは、個人的には大きな癒しになると考えています。体がしんどくても頑張って働いた、嫌な事も我慢して働いた、そうやっていつもより疲弊した心に、誰かからの優しい言葉を求める瞬間が、私にはあります。

 

 「よく頑張って働いているね」「頑張って働いて偉いね」「嫌な事でも我慢できたね」

 

 そうやって頑張りを認められた瞬間こそ、私にとってはこれ以上ない癒しになるのです。

 子供っぽいでしょうか。それでも私は、誰かに認めてもらいたい。

 

 

娘の友達(3) (モーニング KC)

 

 

 古都は、疲れ切った晃介の姿を見抜いて、「認めた」。これが晃介にとって、どれだけ救いになった事だろうか。娘に問い詰められて出た心の叫びが、私の心に突き刺ささる。

 古都の真意は分からない。本当に愛してくれているかも定かではない。それに相手は未成年で娘と同い年だなんて、社会的立場も揺らぐ。危険だ。危なすぎる。大人としては確実に間違っている。

 それでも、それでもときめいた。甘くすり寄る彼女の存在を、疲弊しきった心の拠り所にしていた。サラリーマンとしての晃介ではなく、父親としての晃介ではなく、その双方の在り方に疲れた、なんでもない「市川晃介」に気づき、認め褒めてくれた古都。果たしてそんな彼女に対して、特別な感情を抱けずにいられるのだろうか。

 

 世間的には、社会人でありながら未成年に揺らぐ晃介の事を肯定するのは、非難される事なのだろう。私も、決して正しい感情とは言い切れない。

 ただ、それでもどこかで、晃介の事を許してあげて欲しいという気持ちが募っている。それが堪らなく、怖いのだ。全面的に肯定できない事を肯定したいという矛盾した感情。この漫画はその矛盾をこれでもかと眼前に突き付けてくる。

 晃介を肯定する事は、社会的立場を考えると気が引ける。しかし晃介を否定する事は、承認される事や癒される事を否定している様で、現実世界で必死にもがき生きている自分に止めを刺してしまいそうな感覚になる。この何処にも持っていきようのない感情、分かってくれなくてもいい。分かってくれなくてもいいが、せめて認めて欲しいと思うのだが。

 これは、わがままなのだろうか。

 

 

 余談だが、少なくとも晃介の気持ちは、揺れながらも純粋であると思う。古都が家に来ると聞いて掃除を始めるあたり、彼の純粋さが表れていると思う。気になる女性が家に来るとなれば、男としては正しい反応ではないかと、個人的には思うのだ。そこに純愛すら感じる。

 誠実ではある。ただ誠実なだけでは、まかり通れない世の中でもあるのも正直な話。そんな閉塞的な世の中で生きていると、彼女の笑顔が、いっそう心に痛く染みる。

『グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~』感想 人の優しさこそ、喜劇。

『グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~』映画前売券(一般券)(ムビチケEメール送付タイプ)

good-bye-movie.jp

 

 良くも悪くも、時代の流れってあると思うんですよ。昔は許されていたものが、今は許されていないとか。その逆もまた然り。その時その時によって良しとされるものが変わってくる、つまりはその時代を生きる人間の価値観の変化が、その時代の流れを決定していると思うんですよね。

 生きる時代を選べないのが人間の生まれ持った宿命でして、時代の流れに乗って華やかに生きていく人間もいれば、流れについていけず廃れていく人間もいるのが世界ってもんです。ただ乗れるか廃れるかの二極化しているわけではなく、半分乗れて半分廃れてみたいな人間も存在するのが、また面白かったりするんですが。

 私は、どちらかと言えば廃れていく側だと自負しております。「新しいものや流行りに乗れない」といった悩みをこのブログでもぶちまけてきたんですが、力の集まっているものに馴染めない人間なので、日々小さくなっていく自分を感じながら、今日もなんとか生きている状態です。

marumakkoriblog.hatenablog.com

 

 

 馴染めないからでしょうね、この映画の舞台「戦後すぐの日本」にちょっと眩しいものを感じてしまって…。

 敗戦直後なので貧しい事には間違いないし、今と比べ物にならない程不便であるので、その時代に生きたいかと言われれば首を縦には振れません。しかし明治~昭和初期の日本には、人の優しさや活気が溢れていたように感じるのです。それが堪らなく羨ましい。たぶん、今の私が他人に求めるもの、なにより自分自身に求めるものが、あの時代の人達には溢れていたように思います。

グッド・バイ (新潮文庫)

グッド・バイ (新潮文庫)

 

 

 

 さてこのお話。主人公田島周二が不倫していたわけなんですが、どうにも憎めないのが非常におもしろいというか。昨今の世の中では考えられないほどカラッとした印象を抱かせます。不倫相手となった女性達も、妻の静江でさえも、どこか周二に対して爽やかな印象を持っている。当然嘘をつかれた事に対しては怒っているわけなのですが、私同様にどうにも憎めないという感じ。これも時代なんでしょうかね…。

 誰もがどこか寛容的なんですよ。その時は許せないと怒っていても、次の場面では笑い話になっている。喜劇だからと言われればそれまでなのでしょうが、むしろその寛容さこそが喜劇となっているのではないかと感じるのです。

 

 大変な時代ではあったと思います。でも誰もが大変だった事を分かっていたからこそ、みんながどこか貧しさを抱えていたからこそ、近くにいる誰かの事を思いやれていた、そんな時代でもあったのかなと。人と人との関りに温かみがあったが故に、そこに楽しさがあったのかなと。喜劇が溢れていたのかなと、私は思うのです。

 人の温かさが生む喜劇。笑いながらも穏やかな気持ちでいられる、よい映画だったなと。しみじみ思っています。

グッドバイ

グッドバイ

 

生きてます

 取り急ぎご報告。生きてます。

 先々週ぐらいから体調を崩し、ブログの更新を控えてました。

 少しずつ積み重なる仕事の責任と、暑かったり寒かったりとはっきりしない気候変動。加えて「コロナ」関連による心労などが重なり、まぁ平たく言えば心が疲れ切ってしまいました。

 今では体調もそれなりに回復し、ブログの更新を再開したいところなのですが、まずはたまっていた仕事を消化するのに時間がかかる模様。更新はまだ先になりそうです。

とりあえずできる時間を見つけては記事をしたためていければなと、あとは読んでないブログもたくさんあるので、その辺りを読破できればなと、思っている次第です。

とりあえずご報告でした。