まるマッコリの日記(仮)

自分の思ったこと、好きなものを書いていきます。主に特撮やFGO。

まるマッコリの日記(仮)

『娘の友達(3)』感想 その叫びは、私の心を深く抉った。

 日々は、疲れる。優秀な人でも、そうでない私のようなでくのぼうでも、日々生きていれば、疲れる。昔は大なり小なりという表現を用いていたが、「疲れ」や「ストレス」とは、人によってその負荷は異なるという事を、最近になってようやく気が付いた。他人にとっては大した事なくても、私にとっては大した事。他人にとっての小石は、私にとっての岩石であり、逆もまた然り。結局、みんな等しく「疲れている」。

 

 だからみんな、癒しを求める。疲れない自分を求める。もしくは楽しい自分を求める。趣味に興じるという形で癒しを求めるのが一般的でしょうか。仕事や日々の営みとは違う「やるべき事」ではない、「やりたい事」に没頭する。そうして人は、日々の疲れを癒す。

 癒される瞬間は人それぞれなのですが、他にも「人に認めてもらう」というのは、個人的には大きな癒しになると考えています。体がしんどくても頑張って働いた、嫌な事も我慢して働いた、そうやっていつもより疲弊した心に、誰かからの優しい言葉を求める瞬間が、私にはあります。

 

 「よく頑張って働いているね」「頑張って働いて偉いね」「嫌な事でも我慢できたね」

 

 そうやって頑張りを認められた瞬間こそ、私にとってはこれ以上ない癒しになるのです。

 子供っぽいでしょうか。それでも私は、誰かに認めてもらいたい。

 

 

娘の友達(3) (モーニング KC)

 

 

 古都は、疲れ切った晃介の姿を見抜いて、「認めた」。これが晃介にとって、どれだけ救いになった事だろうか。娘に問い詰められて出た心の叫びが、私の心に突き刺ささる。

 古都の真意は分からない。本当に愛してくれているかも定かではない。それに相手は未成年で娘と同い年だなんて、社会的立場も揺らぐ。危険だ。危なすぎる。大人としては確実に間違っている。

 それでも、それでもときめいた。甘くすり寄る彼女の存在を、疲弊しきった心の拠り所にしていた。サラリーマンとしての晃介ではなく、父親としての晃介ではなく、その双方の在り方に疲れた、なんでもない「市川晃介」に気づき、認め褒めてくれた古都。果たしてそんな彼女に対して、特別な感情を抱けずにいられるのだろうか。

 

 世間的には、社会人でありながら未成年に揺らぐ晃介の事を肯定するのは、非難される事なのだろう。私も、決して正しい感情とは言い切れない。

 ただ、それでもどこかで、晃介の事を許してあげて欲しいという気持ちが募っている。それが堪らなく、怖いのだ。全面的に肯定できない事を肯定したいという矛盾した感情。この漫画はその矛盾をこれでもかと眼前に突き付けてくる。

 晃介を肯定する事は、社会的立場を考えると気が引ける。しかし晃介を否定する事は、承認される事や癒される事を否定している様で、現実世界で必死にもがき生きている自分に止めを刺してしまいそうな感覚になる。この何処にも持っていきようのない感情、分かってくれなくてもいい。分かってくれなくてもいいが、せめて認めて欲しいと思うのだが。

 これは、わがままなのだろうか。

 

 

 余談だが、少なくとも晃介の気持ちは、揺れながらも純粋であると思う。古都が家に来ると聞いて掃除を始めるあたり、彼の純粋さが表れていると思う。気になる女性が家に来るとなれば、男としては正しい反応ではないかと、個人的には思うのだ。そこに純愛すら感じる。

 誠実ではある。ただ誠実なだけでは、まかり通れない世の中でもあるのも正直な話。そんな閉塞的な世の中で生きていると、彼女の笑顔が、いっそう心に痛く染みる。